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現代という時代

相対的な価値

いわゆるステータス品が持つステータス品としての価値は相対的である。それよりも劣位と見なされる品(より安価な品や、より流通量の多い品)との比較によって生じるということだ。その価値は、劣位と見なされる品の数に依存する。例えば、ベンツのステータス品としての価値は、街中に走っている大衆車の数に依存する。

それよりも劣位と見なされる品の数が少ない場所へ行けば、ステータス品はステータス品としての価値を失う。現に千代田区では、ベンツに乗っているからといって、特別視されることはない。

さらに、それよりも劣位と見なされる品がほとんどない場所へ行けば、ステータス品だったはずのものが、上位の品をステータス品たらしめる劣位の品に変わるのだ。ドバイでは、ベンツがランボルギーニのステータス品としての価値を支えている。

相対的な価値が消滅する時代

地方都市から千代田区へ、千代田区からドバイへと移り、ベンツはステータス品としての価値を失い、他のステータス品を支える劣位の品に変化した。環境が変わることによって、相対的な価値は消滅する。そして現代人は、日常的にそれを体験している。

有名なYouTuberが、部屋を片付ける動画を投稿していた。床が見えないほど山積みになった段ボールの下から、20万円のストレートチップが出てきた。彼は、その靴を全く手入れせず、履き潰しているようだった。われわれもホームセンターで適当にスリッパを買い、特にケアすることもなく、破れたら捨てている。同様のことを彼は高級靴でやっている。

また、あるタレントがこんなことを言っていた。「昔はロレックスをつけていれば女を口説けた。でも、いまの若い女にそれは通用しない。人気のインフルエンサーが、オーデマピゲをつけているからだ」と。

かつて、人々はリアルの世界だけに生きていた。いわば "井戸" に生きていた。それなら、ステータス品はステータス品としての価値を保てるかもしれない。

しかし、人々はバーチャルへ、いわば "大海" へ出た。Googleで検索すれば、YouTubeやInstagramを見れば、そこには無数の類似アイテムがあり、何もかもが普及品と化している。高価なものが、ホームセンターで買われたスリッパのように、乱雑に扱われている。人々がこれを認識する時、ステータス品はステータス品としての価値を保てない。

以上のように、現代においては、相対的な価値(劣位と見なされる品との比較によって生まれる価値、したがって劣位と見なされる品の数に依存する価値)は瞬時に消滅する。

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画一化の時代

「現代は多様化の時代だ」という声が大きい。しかし、趣味趣向に関しては、むしろ画一化している。

現代では、情報が乗数的に拡散する。人気のものは、どんどん人気になる。また、こんな人にはこれを、という形で情報を与えられる。"こんな記事が見られています" や "こんな曲が聞かれています" の対象になったものばかりが画面上に表示され、猫の動画を見れば、猫の動画ばかりをおすすめされる。何かを検索しても、結果の表示順位はアルゴリズムで操作されており、それをタップした先には、結局は皆が見ているものがある。

情報量は爆発的に増えたが、人間の認知能力は変わらない。そのため、人気のもの、おすすめのものだけで、人間の認知容量が満たされる。われわれは、まるで開けた口に食べ物を詰め込まれるように、情報を詰め込まれている。われわれはスマホを見ているようで、スマホを見せられている。

テレビは居間にいなければ観られなかったが、スマホはどこにいても見られる。もはや人間の身体の一部になった。われわれは、四六時中、自分と似た誰かと同じものを見せられているのだ。性別、世代、趣味によって分かれた上映室に何万人が入って、四六時中同じスクリーンを眺めているかのようだ。この状況は、多様化ではなく、画一化と親和的である。

クレープが流行った頃、それは原宿の食べ物だった。だが、タピオカは一瞬にして全国のスタンダードになった。かつては日本全国で地域毎に人々のファッションに特色があったが、今ではそれが薄れた。かつては一つの地域内でファッションが画一化していたが、今では全国レベルで画一化しているのだ。

私は長年、様々な靴メーカーやブランドと関わってきたが、昨今は、かつての革靴業界にはなかった事象に直面している。その事象とは、第一に、複数のブランドにおいて、1,2種類の限られたモデルが全売上の80%以上を占めていることだ。第二に、こういった人気モデルのオマージュの乱発である。これらの事象は、多くの靴好きが同じような靴を履いていることを示す。

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